真夜中の読書家

夜だ。さあ、本を読もう。

宮崎伸治「出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記」 を読んで、悔しさのあまり涙を流す。

ご存知か? 「沈黙は金玉」という言葉がある。金玉というのは、言うまでもなく重要な器官である。何が重要なのかは知らないが、付いている以上は重要なはずだ。不要なモノを付けるほど、神様はヒマではないのだ。

すなわちこの言葉が言いたいのは、沈黙は金玉と同じくらい重要だということである。余計なことは言うなと示唆しているのである。言わぬが花、口は禍の元、英語で言えばBetter leave it unsaid(言わない方が身のためだ)なのだ。

さて、宮崎伸治「出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記」という本を読んだ。いやあ、これはなかなか面白かった。図書館で借りたのが申し訳ないほどである。もし、お目にかかることがあれば缶コーヒーくらいはおごってあげようと思う。

青山学院大学卒業後、英シェフィールド大学大学院言語学研究科修了した人である。オホーツク大学を単位ギリギリで卒業した私とは、頭の出来が違うのだ。そんな人が、出版社の編集などをやっているいい加減な人たちに苦しめられるという物語である。

私も弱小出版社とはいくつか付き合いがあったのだが、正直言っていい印象はなかった。まだ広告業界の方がマシだと思った。甘ちゃんが多く、仕事に対する真剣さが足りない。この本に出てくる「今電話しようと思っていたんですよ」というセリフは、私も何度か聞いた。言い訳を恥とは思わない連中が(一部には)存在する業界なのだ。

この著者は頭がいいし真面目な人だから、そうした連中の言動が許せない。腹が立ち眠れない夜を過ごすことになる。「沈黙は金玉」とは、決してなれない人なのだ。我慢に我慢を重ねた上で言っちゃう人なのである。まあ、ビジネス的には正しい。「言わぬことは聞こえぬ」であり、言わずにいたら損をするのに決まっているのだ。相手がおとなしいと「しめしめ」とつけ込む連中が、世の中にはいっぱいいるのである。くそ~っ。

連絡すると言ったのに連絡してこない編集者たちや翻訳者として名前を入れると言ったのに著名な訳者との共著にしようとする編集者。「これは売れますよ」と言っておきながら、待たせるだけ待たせたあげく「売れそうにないので出版しません(実は経営が苦しくなった)」などと言う編集者も出てくる。

とうとう裁判にまで発展する。すぐに和解を提案してくる弁護士は雇わず、自分で対処し、結果として完勝するのだが、精神的な負担は巨大だ。

結局、著者は、疲れ果てて出版翻訳家をやめることにする。なんという理不尽な展開であるか。こういう優秀な人を活かすことができない出版業界なら、さっさと滅んでしまえと思うのである。活字離れ、万歳! 若者よ、本を捨てて旅に出よ!

日本語しか読めない我々が世界中の小説を読めるのは、翻訳者のおかげではないか。日本の文化レベルが高いのは、優秀な翻訳者がいるからである。せめて印税は10%に上げてほしいのだ。この人の場合、せいぜい7%だったらしい。作業的には、小説家よりも大変だと思う。

ちなみにこの本を読んで気がついたのだが、私は、この人が訳した「小説家・ライターになれる人、なれない人」を所持していたのだった。まあ、買った時点で私はすでにライターだったのだが、パクれそうな言葉がいくつかあったので購入したのだ。名言集や歌詞集など、同じ目的で購入した本は何十冊もあったのだが、今残っているのは、この本くらいだなあ。

「小説家・ライターになれる人、なれない人」は、早い話が「書けない人」が「書ける人」に変わるための本である(確証はない)。興味がある人は、Amazonで注文しよう。

 

 

 

花村萬月の「たった独りのための小説教室」を先っちょだけ読む。

なにが嫌いかと言って、文章読本ほど嫌いなものはない。

あんなものを読んだってね、あなた、小説など書けません。小説を書くには資格が必要なのである。資格がない者が書けば、ガッカリして勘違いして恨みを募らせて、結局、京アニ事件を起こした青葉被告のようになってしまう。あの男は、一番重要な自分を客観視する能力が圧倒的に欠けていたんだろう。早い話が頭が悪かったのだ。

たまにデザイナーやコピーライターにも、自分(の作品)を客観視できない奴がいて、こういうのは実に迷惑な存在となる。以前、そんなのが某代理店にもいて、アートディレクターとしてさんざん失態を演じた末に地方に飛ばされた。二度と帰ってくるなよ馬鹿者が。

さて、文章読本の話である。私が持っているこの手の本は、筒井康隆の「あなたも流行作家になれる」と「創作の極意と掟」の二冊のみである。筒井康隆のファンだから買っただけだ。

で、最近図書館に行ったときに、たまたま花村萬月の「たった独りのための小説教室」という本を見つけ、ほお、花村萬月か、ああ懐かしやと借りたのである。

花村萬月というと以前「ぢんぢんぢん」というチンチンに濁点の小説を読んだことがあり、いやあ、あれはすごい小説だった。ちょっと漫画っぽい展開だったが、それでも圧倒されたのは事実である。腹が立ったので、それ以降、彼の小説は読んでいない。

さて、「たった独りのための小説教室」である。ちょっとだけ読んだのだが、これは手垢の付いていない若い人向けの文章読本である。花村萬月もそう書いている。

私のように手垢が付きすぎてチンコが黒ずんできたジジイの読む本ではない。さらには、小説家になりたいと考えるような自己顕示欲の塊のような人物が読む本でもない。

となると「たった独りのための小説教室」というタイトル自体が付け間違いなのではないか。「小説なんぞ書いてたまるかというマトモな人のための小説教室」が正しいタイトルなのではないかと思うのである。

まあ、読み物として面白いことは確かで、第4講「小説にオチはいらない」の課題はなかなか興味深かった。「ノンフィクションではなく、あくまでも虚構で、セックスの一部始終を四百字詰め原稿用紙にして四十枚程度を目処に書いてみなさい」という課題だ。

なに、セックスですと。セックスなら任しておきなさい、と私の絶倫ぶりを書こうとしたのだが、なんだ、虚構しか書いてはいかんのか。せっかく精液の色が赤になったり青になったり、一度など金色になってピカピカ光りだし相手の女性に宇宙人だと勘違いされたことを書いてやろうかと思ったのだが、あれは実話だからなあ。残念である。

 

 

 

劉 慈欣「三体0 球状閃電」にちょっと異議あり

「三体」シリーズは、全部読んでいる。随分と人気のようで、テレビや雑誌でも紹介されていた。非常に腹立たしいのである。人が褒められるのを見るのは大嫌いなのだ。心の狭さでは、町内一である。

さて、「三体の前日譚」とどこかに書いてあって、私は、ちょっと首をひねったのだ。あの作品に前日譚はいらないのではないか。今さら余計なものを付け加えるのは得策とは言えないのではないか。

そしたらあなた。ストーリー的には前日譚ではなかった。三体というのは、早い話が「なに~!? わしらの世界を脅かす異星人がいるやと。怪しからん。今のうちに滅ぼしてしまえ」という連中(三体人)から地球を守ろうというお話である。その前日譚であるならば、当然、三体人が出てくるのだろうと思ったら、出てくるのは地球人のみである。

訳者あとがきを読んで知ったのだが、元々は「三体」シリーズではなかったようだ。「三体」の前に書かれた全く別の作品なのである。訳者あとがきからちょっと抜き出してみよう。

「従って、‘‘『三体』三部作の前日譚的な要素のある単発長編’’とか、‘‘部分的プリクエル’’と呼ぶのが順当かも知れない。‘‘エピソード0’’的な意味で『三体0』と銘打てば、『三体X(著者が別人)』とのバランスもとれるし……と半分冗談のつもりで口にしたところ、早川書房編集部がたちどころに著者側と交渉。意外にもすんなりOKが出て、こうして『三体0 球状閃電』なる翻訳書が誕生することになった」

あからさまに言うと「三体シリーズと銘打っといた方が、ぎょうさん売れまっせ」ということなのだ。確かにそれはビジネスとしては正しい。私だって、三体シリーズだから思わず手に取ったのである。

もちろん多少割り切れない部分があるのは確かで、これで三体0 球状閃電」が面白くなかったら、焚書の刑にしてやるのだが幸いにして面白かった。特に「量子の薔薇」という最後のエピソードは、骨子をパクって短編小説にしてやろうかと思ったくらい気に入った。もの悲しくも美しいのである。

詐欺的商法ではあるが、まあ、許してやろうと思う。

 

 

筒井康隆「カーテンコール」をこれから買いに行く。

新聞は、今は読売新聞を読んでいる。前は捏造偏向なんでもありの朝日新聞だった。

言い訳すると広告業界の人間は、朝日新聞をとっていることが多かったのだ。昔、広告業界の求人は、朝日が一番多かったことが影響しているのだろう。あとは広告掲載も朝日と日経が重要視されていたように思う。まあ、昔々の話だが。

何度も朝日(たぶん勧誘専門の業者)から「どこに変えたんですか」「年末の一ヶ月だけでも契約してくれませんか」などと電話がかかっていたが、バカめ。部数を減らしたくないのなら、捏造や偏向をやめれば良かったのだ。読者の声欄を使ってまで、世論操作をしやがって。

何が「軍艦島に強制連行された朝鮮人が可哀想」だ。捏造された歴史を信じ込む老害の投書を、そのまんま載せやがって。バカじゃないのか。朝日新聞などさっさと潰れてしまえと、心から願っているのである。

で、書きたいのは、そんなことじゃない。

読売新聞の広告欄に筒井康隆の新刊が載っていたのだ。「カーテンコール」という書籍である。どうやら掌編小説のようだ。キャッチフレーズに「これがおそらくわが最後の作品集になるだろう」と書かれていて、そりゃあ、筒井康隆も90歳近いはずで、いつ死んでもおかしくはない。ついこの間なくなったSF作家の豊田有恒は、まだ85歳だった。

私の希望的観測では、「カーテンコール」が最後の作品集ではないと思う。彼の死後、「これが本当に本当の最後の作品集である(筒井康隆(*ノω・*)テヘ)」という惹句で新刊が出るに違いない。いやいや、もしかすると第二第三の最後の作品集が出てくるかもしれず、さらには作品集ではなく大長編小説の可能性もなきにしもあらずだ。ああ、楽しみだなあ。

しかし、90歳近くになってまで小説を書いているとは驚くべきモチベーションである。病気でも体力がダダ落ちでも、小説はなんとか書ける。だが、気力がなくなれば、小説を書くことは無理なのだ。私などは高齢になって、まだなんとか空は飛べるのだが、小説を書くのは困難になってきた。

新しいキーボードを買ったりしてモチベーションを高め、どうにかこうにか文章を書いている昨今である。いやはや。

 

 

「戦国十二刻 女人阿修羅」を読んで細川ガラシャの辞世の句を覚える。

木下昌樹という作家は、知らんかったなあ。

私は、どちらかというと海外ミステリーとSF小説が守備範囲で、時代小説はあまり読んでいない。まあ、北方謙三の「水滸伝」全19巻は何度も読み返しているし、司馬遼太郎の「国盗り物語」の冒頭の文章はサイコーに格好いいと思っているが。

さて、この間、「書架の探偵」という本を探しに図書館に行ったのだが残念ながら貸出中で、その代わりに借りたのが木下昌樹の「戦国十二刻 女人阿修羅」である。女性を主人公にした短編集で、どれもよくできていた。

絶世の美女が「顔じゃなく自分を愛してくれるのだという証を見せてくれ」などと言った結果、自分の身に恐ろしい出来事が起こったり、武芸自慢の女性が勘違いして取り返しの付かないことをやってしまったり、ちょっと怖い話もあるのだが、数時間で読み切った。

細川ガラシャの短編もよくできていて、特に最後に出てきた辞世の句は効果的に使われていた。お母さんの自転車を「ママチャリ」などと省略する今の日本人に、ぜひ読んでいただきたい句である。

【散りぬべき 時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ】

花は散るときを知っているからこそ美しい。 人間もそうだ。 今こそ散るべきときである、という意味なのだが、辞世の句としては、これ以上ないほど見事である。

これまで私は、死ぬ間際に「願わくば 花の下にて春死なん その如月の望月の頃」を口にしようかと考えていたのだが、春以外の季節だったら祖語が生じる。「爺さん、ぼけちまってるよ。今は秋だよ」などと笑われてしまうのだ。

やはり、細川ガラシャの句にしておこうかと考えている。

以前は、自分で作ろうかと思っていたのだが、私の言葉の選び方は極めて「俗」なのだ。コピーライターなどと言う企業の幇間になったせいだろう。「プレバト!!」なら確実に才能なしである。嗚呼、情けなや。

 

 

 

「彷徨える艦隊12 特使船バウンドレス」を買ったった。

「彷徨える艦隊」シリーズという他愛のないSF小説がある。他愛はないのだがやたら面白く、全11巻をもう6回読み返した。

ざっくり紹介すると、「ああ、もうダメだ」とギアリーという宇宙士官が冷凍睡眠に入り、目が覚めたら100年後で、しかも味方の陣営では自分が伝説の英雄として称えられるようになっていたという展開である。そして、負けが決まっているような宇宙艦隊戦を次々に打破し、ますます名を上げていくというストーリーだ。しかも、美人大使やら美人艦長にもモテモテなのだ。実にくだらん。馬鹿馬鹿しいにも程がある。

あなたね、こんな小説、ポルノ小説と同じレベルにある作品だと言っても過言ではない。当然文学性はゼロ。斬新さも独自のアイデアもなく、ただ主人公が活躍するだけ。驚きも感動もなく読み続けるという、まさに風と徒労の読書なのだ。だが、私は、全11巻を6回読み返したのである。我ながら馬鹿丸出しではないか!?

で、今日、クレオパトラ似の妻と近所の書店に寄ったんだが、そこで「彷徨える艦隊12 特使船バウンドレス」という本を発見したのである。

え~っ、11巻で完結したんじゃなかったのか!? まだ私は、こんなくだらない程度の低い小説を読まなきゃならないのか。私はその場で地団駄を踏んだ。いや、あれは踏んだと言うよりも踊ったといった方が正確だな。華麗なる地団駄踊りだった。

値段は、税別で1,680円である。ふざけるな~っ。文庫本のくせにほとんど2,000円ではないか。早川は高すぎるんじゃ~。せめて税込みで1,280円にしてくれや~、と思わず関西弁が出てしまったのである。

家に帰って書斎に向かい、「彷徨える艦隊」が納められた書架スペースを見る。もちろん隙間などない。仕方がないなと端っこにあった「風の影」の上下巻を抜き出して、できた隙間に買ったばかりの12巻目を差し込んだ。

「風の影」はお払い箱だ。近所の女子大生にでもくれてやろう。「うれしいっ。これ読みたかったんですぅ」とキスくらいしてくれるかもしれん。

第12巻を少し読んでみたのだが、やはり前巻までのストーリーをすっかり忘れてしまっていた。仕方がないな、と私はため息をつきながら、「彷徨える艦隊」の第一巻を抜き出し、7回目のシリーズ読破を開始したのである。

 

 

 

 

「Ank : a mirroring ape」を読んだ。

私は、英語が嫌いである。なぜなら話せないからだ。言葉など日本語で十分。日本に住むなら日本語を話せ。なにが「What?」だ。これ見よがしに肩をすくめやがって。アイハブアペンで育ったジジイに、ネイティブな発音など無理に決まっているだろうがあ!

さて、佐藤究の「Ank : a mirroring ape」を読んだのだが、英語のタイトルのせいか最初は忌諱していたのだ。初めて読む作家だが、評判がいいのはネットの情報で知っていた。なかなか読ませる作家らしい。中古なら1円とあったのだが、送料が1,100円である。アホか。そんなんだったら新品を買うわい。文庫本なら1,200円だ。

一気読みしたわけではないのだが、それは私の集中力が足りないせいである。一般的には一気読みできるレベルなのではないか。時系列に沿った展開ではないので、ややかったるい点もあるのだが、リズムに乗ると気にならなくなる。文章は平易で気取らずわかりやすい。こういうのを文章力があると言うのだろう。

一匹のチンパンジーから広がるパンデミックの話で、展開はゾンビものだ。私もゾンビが大好きで書いてみたいと思っているがなにぶん手垢の付いたジャンルだ。安易には書けないのだが、佐藤究はうまいことやったようだ。うらやましい。

記述の中に「チンパンジーと人間の遺伝子のちがいは、わずか1.8パーセント程度しかない。自分たちとたった1.8パーセントだけしか変わらない生きもの。彼らを知ることが、人類進化の謎を解く手がかりになる」とある。

私は、この説の前半部分には反対である。

あなたね。いくら類人猿といえども、私とチンパンジーの差が1.8パーセントなんて信じられないに決まっているではないか。あいつらは言葉も喋れないし、四則演算もできない。私は引き算は苦手だが、かけ算は9の段までほとんど言えるぞ。まあ、鏡像認知できるのは、人間以外ではエイプだけだというのはたいしたものだが。

まあ、遺伝子の差に関しては諸説あるようだ。調べ方にしても、両方の遺伝子でまったく違う部分は切り捨てるという手法がとられているらしく、素人視点にしても、それはちょっと乱暴なのではないか。また、犬と人間の遺伝子の差は20パーセント、バナナとの差は50パーセントという情報も載っていた。

いやいやいや、あなたね。私とバナナの差が50パーセントなんて、そんなわけないではないか。つまり、遺伝子の差と生命体としての差は、イコールではないと言うことなのだろうと私は結論づけたのである。とりあえずそうした部分は無視して、小説として楽しめばいいのだ。

ちなみにこの作品の主人公に対する結末は、私としては好みではない。私だったら、ああしてこうしてどうするかと細部に至るまで考えてみたのだが、私の結末の方が広がりが出ると思うんだがなあ。まあ、自画自賛だ。余計なお世話だな。